【流山市医師会 市民公開講座】
2015.03.08
生きること 愛すること
大石 邦子 氏 (エッセイスト・歌人)
はじめに
2015年3月8日、小雨の中、流山市文化会館大ホールにおいて、講演会を開催しました。
約400人の方が来場され、109通のアンケートが寄せられました。講演内容に感動の涙を流した方が続出しました。
ここでは、その感動的なお話をそのままお伝えすることはできませんが、要旨を掲載させていただきます。
講演までの経過
初めに、講演が実現するまでの裏話をご紹介します。平成9年11月2日にNHK教育テレビで放映された「こころの時代」の再放送があり、その放送を見られた横田医師会長が連絡をしたことから今回の講演会が実現しました。
豪雪の会津地方は3月には雪の状況では車いすでは外出できなくなるため、この時期の講演は厳しい状況でした。(実際、3月第2週に吹雪となり、もしも翌週だったら来られなかった状況でした。)1年前から日時が決定しているため、万一に備えて演者の代わりを医師会員で務める企画も整えていました。本当に幸運に恵まれ当日を迎えることができました。
福島の現在
当日の講演では、まもなく3月11日ということもあり、震災後の福島の状況について触れられました。
東北では、地震と津波で2万人近い方が亡くなったということは、その一人一人につながる何倍もの人の悲しみにつながっている。さらに12万人の福島県民が未だに故郷に戻れない状況にあることは、震災だけでなく原発事故の被害の大きさを物語っています。千葉県にも2月の時点で3088人の方が避難されています。原発事故は人間の力ではどうすることもできない。
福島の人は故郷があって、自分の家も学校もあるのに帰れない。事故の後40日間近づくことができなかった故郷で助けに行くことさえできなかった無念。それでも、福島の高校生が、「あの時医者が足りなかった、看護師がいなかった」ので資格を取ろうと進学し、故郷の復興に役立ちたいとがんばっている姿も紹介して下さいました。
震災は多くの人生を断ち切る出来事でした。大石さんは20代の突然の事故に加え、病気でも生死を分ける体験をなさいました。2008年、全身麻酔の乳がん手術の後、3日目に胸部大動脈瘤が破裂寸前となり緊急手術を受けたのです。「大石さんのような人は、何が起こるか分からないから」と言われて、福島医大に紹介されていました。二度目は局所麻酔で手術の痛みに失神、目覚めたときに初めて自分の体がいとおしいと思えたのだそうです。
なぜ講演を続けられるのか。気力の源は?
彼女が自らの体験を語り続ける理由の一つとなる体験がありました。
ある高校での講演が始まった時、ヤジが始まったのです。それは「私は高校生の前で話させていただくのが一番私にとってうれしいことなんです」といった瞬間でした。その時<この子たちは自分たちに静かに聞かせるため、聞いてほしくて、自分たちに媚びて「高校生が好きなんです」なんて言ったと受け取ったんだろう>と思い、「なぜなら」と続けたのです。「なぜなら、私も健康だったらね、皆さんくらいの子どもがあったかも知れない。でも、私は結婚することも、子どもを産むこともできなかった。でも、一人でもいいから、皆さんぐらいの子どもがあったら良かったなあと思うものですから、つい、こういう皆さんの前に立つと、他人事とは思えないんです。」と言ったとたん私語は止み、一時間半、全く私語なしでした。
そして、終わったら、一番やじったグループが突然立ち上がって拍手をしてくれたのです。その時突然、真ん中の子が壇上に駆け上がり、先生たちも大石さんも一瞬身構えました。飾ってあった大きな花から3本の白百合と麦の穂とひまわりを抜き取って花束を作り、両手に捧げて渡したのです。
「ありがとう」と言いながら握手をして、<この子に出会ったことでもう少し頑張れる。講演なんて頼まれて人の前で話させていただいているけど、いつもいただくのは、私の方だ。こういう子どもたちから力を得て、励ましを得てがんばってこれたんだなあ>と。<死にたいなあ>とか<なんで自分だけがこんな目にあわなくちゃならんのか>と思う中でやっぱり生きていて良かったという思いを、本当に心からそう思う場面に時々会うのです。
障碍者となっての歩み
ここで大石さんのプロフィールに話が移ります。
福島県会津本郷町に、教師の父と病弱な母の間に誕生。22才まで健康で活発な女性でした。1964年22才の朝、邦子さんは、通勤途中のバスに乗っていて、バスが急停車した衝撃で飛ばされ、脊髄を損傷し、半身麻痺となります。
下半身の感覚が無く、左手も不自由、自分の足が分からない、排せつも自分でできない状態になり、様々な治療を受けます。看護師に嫌われたら生きていけない身体となり、看護師の前ではいい患者をし、母が来たときにその反動をぶつけてしまった。
母の言葉「人は生きるために生まれてきた」「何もかも終わりということは何か始まるっていうことじゃないの。どんなに現実を拒否しても逃げても心は楽にならない」。後で母が「私があの子にできることは、せめてあたられることしかない」と語っていたと聞いて、母の愛と悲しみの重さに気づいた。
ある時、医師から「あきらめも闘病の一つ」と不治の告知を受け、ひどいことを言う医者だと思った。その医師から、新聞の切り抜きを見せられ、(それは水俣病で手足が麻痺した人が短歌を作っているという記事。)人生をあきらめないために現実を受け入れることを学び、自分には右手があり、字が書けることに気づいたのです。
看護師に心を救われた
桜の季節、病室の窓の下に桜並木があり、若者たちが寄り添い、お花見の声が聞こえてきます。感情を抑えきれなくなって、手当たり次第に物を投げつけ大暴れをした時、看護師がやってきて、「怒られる」と思ったのに、じっと黙って近づいてきて気持ちが収まるまで待っていてくれたのです。
そして、「桜、見に行こうか」と邦子さんをカーデガンで包んで、背負って階段を下りてくれたのです。背中の温かさの中で、<私は人間として大切に扱われた>と感じ、<解ってくれる人がいれば救われる>と感じた瞬間でした。
妹さんの献身
1976年に自宅に戻り、車いす生活を続けながら、講演を続けておられます。妹さんが大学を中退して、ベッドサイドに寝泊まりして、介護者を引き受けてくれたのでした。本当は学校を続けたかったけれど、「私は勉強が嫌いだから、良かった」と言って。
その妹さんが半年前、亡くなられた時の最後の言葉が「私の分も生きて・・・」でした。なぜ私でなくて妹だったのか、妹の言葉を胸に刻んで、生かされたいのちを最後までがんばろうと思われたそうです。
恋人との別れ、両親を相次いで亡くしたこと、アメリカ横断旅行をした後がん告知を受けた時の「一人海の底に沈んでいくような寂寥感」を感じたことなど、時間いっぱいにお話しいただきました。全てをご紹介できないのが残念です。
主催者感想
苦難の人生を省みて、「人は一人では生きられない」、「人生には出会いがあり、理解してくれる人が必ずいると信じてほしい」というメッセージをいただきました。
主催した私たちもが引き込まれてしまうようなお話でした。大石さんの誠実な人柄が、聴く者の心に響く言葉を紡いでいると感じました。
くわしい内容は、インターネットでNHKの放送内容や以前の講演内容が閲覧可能です。残念ながら著書は絶版になって新刊の購入は困難ですが、流山市立図書館で借りることができました。
アンケート集計
[Ⅰ] ご感想、ご意見
[II] 企画・運営へのご希望
[III] 医師会活動・健康増進へのご意見
*たくさんのご意見ありがとうございました。今後の開催に参考にさせていただきます。
(文責 / 流山市医師会担当理事 戸倉 直実)